野芥時縁切地蔵尊の由来について:長者原につながる

野芥縁切地蔵尊の由来が、婚約者と結ばれないことを悲観して自ら命を絶った悲しい女性を供養するためであるということに興味を持って、もう少し詳しく調べてみました。
なぜ縁切の地蔵となったのかは分からないままですが、もっと面白いことが分かりました。

長者原の地名の由来が縁切地蔵

野芥縁切地蔵尊にある案内板によると、現在の粕屋町の長者原に住んでいたお姫様が福岡市早良区重留に住んでいる男性と結婚することになっていたとあります。
この結婚が結ばれないことが縁切地蔵の由来ですが、粕屋町のホームページ(参照:長者原伝説)には、長者原の名前の由来がこの悲劇だということが紹介されていました。

当時の出来事

西暦770年から780年ごろ(奈良時代の終わりごろ)に、現在の長者原に大城出羽守国定(おおしろでわのかみくにさだ)という長者が住んでおり、その娘・於古能姫(おこうのうひめ)が現在の福岡市早良区の豪族・郷士土生伯耆守(ごうしはぶほうきのかみ)の息子・土生修理太夫昭兼(はぶしゅうりだゆうあきかね)と結婚することになった(注)。
嫁入りの道中、現在の野芥で於古能姫は自分が結婚できないことを知った。
結婚できないこと(それだけではないようですが)を悲観して於古能姫が自ら命を絶ったと同時に、父の国定も後を追って命を絶った。

(注)縁切地蔵尊の案内では、於古能姫と結婚することになっていたのは「昭兼」の息子「兼縄」となっています。
また、「大城出羽守国定」の名前も「曽根出羽守国貞」となっています。

おそらく、国定の死とともに大城一族は没落し、地元の長者を偲んで一族が住んでいた一帯を「長者原」と呼ぶことになったのでしょう。
当時、於古能姫が住んでいた場所には「馬頭観音堂」が祀られているということです。
機会があれば馬頭観音堂にもお参りさせていただきたいと思います。

縁が広がる

野芥縁切地蔵と粕屋町の馬頭観音堂とは、直線距離で15㎞程離れています。
早良区にあるお地蔵様がまさか長者原と結びつくとは思いもよりませんでした。
こんなに離れている場所の出来事が地名の由来になっているというのは面白いと感じました。
と同時に、わたくしにとっては縁切地蔵尊の参詣から縁が広がっているようです。

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